美女と野獣 ひとの期待に応えなくてもいい権利


人には誰にでも与えられている権利がある。「人からなにかを期待されて、それを察することができても、それに応えなくなくてもいい権利」もそのひとつ。

アサーティブでいうアサーション権 のひとつとして重要な権利だ。アサーティブとは積極的自己主張、そういうと味気がないね。最適なコミュニケーションをする方法と考えたらいい。人として「ひとの期待に応えなくてもいい権利」は当然の権利だけれど、世の中にはそれを許さない雰囲気があったりする。もし、そういう場面に出会ったら、無視して通り過ぎるんだよ。


期待するのは相手の勝手であって自分のことは自分で決めればいい。相手の期待に応えても、相手が自分の期待に応えてくれるかどうか定かではない。GIVE&TAKEを求めなさいというわけではない。理由はそれと反対で、もし応えてくれなかったときには、怒りの感情が起こってくることもある。その感情はもっともだ。それを否定することはない。


でも、怒りの感情を持つことは、自分が悲しいよね。それに相手や周囲の人との間で互いに反感を持つことにもなる。
だから自分の周辺に、見えないままに立ち上がってくる可能性も考慮して、人からなにかを期待されて、それに応えなくなくてもいい人権を使ってほしい。それを察することができるほど応えないのはつらいと思うけれど。


もし、人の期待を察して応えたいと思うときは、GIVE&GIVENのポリシーがきちんと自分に備わっているかどうか確認して、キチンと認識できたら応えたらいい。そうでないと自分はこれだけのことをしたのにとGIVE&TAKEを求めて、相手を責めたり、失望から自信喪失、自己嫌悪になったりすることも少なくない。



それでは、人からなにかを期待された段階で自分が相手に期待しているGIVE&TAKEがスタートになってしまう。周囲の期待に応えるもの、応えないのも、共同体における自分の選択であって、GIVE&TAKEという交換ではないんだよ。
自分の考え、自分の気持ちで動く自由な精神を汚してほしくない。自由を尊ぶ気持ちを大切にしてこそ相手にも束縛を感じさせないコミュニケーションが可能になる。


周囲の期待を考えるときに、ヒントになる話があるので心に留めておいてほしい。

「美女と野獣」の話は知っている?
ジャン・コクトーの映画、ディズニーのアニメにもなったボーモン夫人の有名なおとぎ話のアレだ。この物語は解釈が人によって違うけれど、長い時を経ても未だに輝きをなくさないのは、とっても重要なヒントを隠しているからだよ。


野獣である王子は最後に美しい王子になって終わる。その結果にハッピーな気持ちになるけれど、それがこの物語の意味を誤解してしまう原因になる。
ベルという娘は、変貌することを求めずに、野獣の王子をそのまま受け入れたから、最後に変化が起こって野獣は美しい王子に変身する。


ひとは、無意識のうちに、自然な要求として、他者に「あなたさえ変わってくれたら、私は幸福になれるのだから」となにかとひとのせいにする。こども、パートナーにはじまって同僚、上司、部下など、要求の強さは立場によって違っても、幸福は相手次第と言わんばかりに自分以外に変化を要求してしまう。思い込みなんだけどね。


でも実際は、自分の行動で自分は幸福になれるものだ。ひとは誰でも自分の判断と行動は自分が選択できる。選択次第に自分を幸福にできる。「美女と野獣」の物語はそれを伝えているんだよ。
アサーションで言う「周囲の期待に応えなくて良い権利」とは、ひとは自分の行動で幸福になれるということの裏返しにすぎない。



ゲンキポリタンのじぶんぢから再生プロジェクト
マートワンの男前プロジェクト