人は意識と想像の区別が苦手だ。

 人は意識と想像の区別が苦手だ。

 たとえばまだ起こっていない先のことを考える、これは想像。過去のことは体験したことを思い浮かべているので、これも想像だ。

 本当の意味で意識できるのは、現在(いまこの瞬間)のことだけだが、人は意識だけを使って考えていない。たとえば目の前にある皿を丸だと思うけれど、丸だと意識できるのは上から見たときだけで、違う角度で見たら丸ではない。それを真上から見なくても想像力を使うことで、丸だと客観的な判断が出来ているにすぎない。

 このように想像と意識を混ぜ合わせて考えるから一応まともな意見が交わせる。(本当は錯覚だが、気がついている人も、そのことを問題にしても逆に混乱するだけなので、大局に立って社会のルールに合わして暮らしている。)

 しかし、人の苦悩はここから始まっている。すでに現実と想像が区別できなくなっていることに、気がつかないからだ。想像と意識を混ぜ合わせて考えるから、考え出したら、過去の体験と先の想像がいま起こっている現実に加わって、歯止めが効かずに現実がなにか分からない状態になる。みんな、この状態で暮らしているが、認識できていない。認識していないから正しいと思い込んでいるだけだ。

 現実だけにしぼって行くと、すべての現実は川の流れのごとく変化し続けていることが分かるだろう。自分も周りも全部、変化し続けている。その事実を知っているのは身体だけで、その証拠に突然病気になる。でも本当は突然でなく、その兆候(経過)は発症以前に起こっている。脳はこれを認識できない。

つまり執着とは想像へのこだわりであって、現実を認識しているわけではない。想像のなかには五感で記憶したことが混ざっているからますます分りにくい。人生脚本は、五感と過去の記憶、想像で書かれていて、しかも意識できない。そこで使えるのはまだ使っていない意識しかないのです。ところが脳はたくさんのことを意識することが苦手だ。だから感情に流されて消えてしまう。

 はっきりと目的を意識しないと、どこへいくか分らないのだ。

 意識できるようにすることが重要で、意識したことはふさわしい努力さえすれば、何でもできる。逆に意識していないことは簡単なことでもできない。

事実、病院におけるリハビリとはこの戦いだね。意識と身体が遮断されたために身体が思うように動かなくなっているのを、再度、意識を身体にインプットする作業だ。なかなか成果の表れない地味で単純な作業でも、自分を信じてあきらめずに、繰り返し、繰り返し続けて奇跡を起こそうとした者だけが夢見た回復を獲得している。

人生脚本を書き直すのも同じで、インプットする場所が身体ではなく五感と潜在意識なのだ。どうしたいのかを明確にして、繰り返し、繰り返し、自分に教え込む。

なれる最高の自分になる努力だ。それが足らないと、小泉八雲の「怪談」に出てくる「耳なし芳一」のように後一歩で失敗してしまう。油断禁物、繰り返し、繰り返し、自分に教え込む。

過去のイライラ、不安があっても、それは終わったこと、この先のことはまだ起こっていない。出来ることは目の前のことに誠心誠意、ベストを尽くすことしかない。その瞬間、瞬間を肯定的に取り組んでいけばいい、それしかできない。

なぜならみんな変わり続けているからです。彼と会っていても昨日の彼とは違うし、こちらも違う。奇跡的な偶然を除いて、同じ状況で向かい合うことのない一期一会なのだ。だから以前こうだったからと思い煩うことなく、自分と相手の両方に成長を期待し、熱意を持って淡々と進めていくしかできない。

その人間の真実ともいうべきことが受け入れることができると、世界は変わって見えはじめ、恐れが減っていく。もし世界が変わって見えたら、それはそれとして奥底に持っていたらいい。議論しだすとヘンな奴だと思われるだけかも知れない。

 君が望む具体的なイメージを強くもって、その実現に瞬間、瞬間の対応を心がけるようにするんだ。瞬間、瞬間の対応を心がけるには具体的なイメージを強くもっていないと局面の感情に流されてしまうので、イメージが実現できなくなる可能性が潜んでいることに気をつけてほしい。

イメージを明確に意識して、顕在化しょう。

飛躍した意見に感じられるかも知れないが、それが本当だ。なりたいイメージを明確にして、否定的にならず肯定感を強く意識してベストを尽くすんだ。


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